やまなしの国保 4月号
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は主にパンジーを幾つもの鉢やプランターに植え、さらに何個ものハンギングバスケットを軒先につるしていた。 3月に入ってからは水やりを控えていたが、大型の鉢やプランターの重みは十分で、移動のために特別に助っ人をお願いしなければならないほどだった。そんなこんなで2月から始まった引越しの準備段階からの重労働がたたり、ついに身体に異変が生じた。右の下腹部に僅かな膨隆が発生し、長時間歩いたり、重量物を持ち上げると刺すような、かなり強い痛みが出現するのだ。診断は容易で、右ソケイヘルニア。脱腸である。 立位の時や歩きながらズボンのポケットに手を入れて脱出した腸を、グチュグチュという音とともに押し戻すと、とたんに楽になるが、指先に力を入れてないとまた出てくる。「変なところを押さえないで」といわれても、痛いものは仕方がない。 実はこの妻のやや冷たい物言いには理由があるのだった。まだ子供たちが小さかった頃、一人がソケイヘルニアを発症した。外科医でもある親の務めとばかり、年端も行かない幼児の手術をしたまではよかったが、その後がいけなかった。ヘルニアは遺伝することもあるので、きっと妻の家系にヘルニアが多いのだろうといったのだ。 妻の表情を曇らせたこの酷い言いがかりは半年ほどで決着がついた。郷里の私の父親が立派な脱腸持ちであり、何を言う私も乳幼児期にヘルニアの親戚である陰のう水腫だったことが判明したのだ。もちろん妻の美しきかんばせが、いつにもまして晴れ晴れとした笑みに彩られたことはいうまでもない。 さて大量のパンジーなどのプランターをマンションの前や庭に並べると、ヘルニアの私をねぎらうように、私の父の従妹でもあるマンションのオーナーが言ったのは、「実は私もヘルニアの手術をしましたのよ。それから兄も脱腸帯をしていました。もちろん父も立派なヘルニアでした」と、ごく上品におっしゃるのだった。なんと我が脱腸のルーツは私の祖母の家系にあったのだ。今回の転居は、我がヘルニアの発祥の地に帰り着いたということだったのだ。 4月になればやはり北大を出て外科医になった息子が帰ってくるので、飯富病院で患者を含めた北大トリオということで、芦澤先生と息子に手術をお願いしようとの決心は簡単につき、妻は妻で「今はまだ小学生の孫が医者になって、遺伝性のヘルニアに苦しむ父親の手術をすればいい」などと、自分の息子を早くも患者にしてしまって、笑顔とともに話している。始めるということ 4月からの新しい職場も決まり、飯富で続けてきた肺がん検診と在宅医療も継続可能となり、ヘルニアも完治するとなれば心置きなく新しい仕事場で働けるのだと、仕事人間の私は意欲に燃えているのだ。 ことさら厳しかった今年の冬の寒さから守るため、屋内に避難していたクンシランの厚い葉を、そっと開いてみると、何の迷いもないかのようにかわいい小さな花芽があちこちに伸びてきている。 春なのである。飯富から広い庭園の一隅に移されても、決められたように、約束されたように花を開こうとしているのである。 ソケイヘルニアは困難な障害物ではなく、祖先の地に帰ってきた証明のようなものだ。ましてや我が母校の頼もしい後輩が控えているではないか。 31年もの長い間継続してきたライフワークを新しい職場でさらに大きく展開できる好機に恵まれたのである。you are young as your faith, as old as doubt;as young as your self-condence, as old as your fear;as young as your hope, as old as your despair.人は信念とともに若く、疑惑とともに老ゆる 人は自信とともに若く、恐怖とともに老ゆる  希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。Samuel Ullmann   そのとおりだ。春なのだ。老いて定年を迎えたのではなく、青春なのだ。新しい職場で、新しい環境で,しっかりと、前を向いて生きてゆこう。一生の仕事と決め、続けてきたことを発展させ、質を向上することが私の使命なのだ。そして、私に素晴らしい遺伝子を与えてくださった先祖の地で妻と息子と娘と孫たちと生きていこう。この4月、新しい生活を始めるにあたり、そのような決意を心に誓ったのだった。19

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